テヘランではあまり大したことはしていないのですが、主にお散歩をしていました。時期としては、11月上旬。まだ、IAEAによるイランの核開発に関する報告書が明らかになる前。ほんの少しタイミングが後ろにずれていたなら、テヘランにちょっと立ち寄ろう…なんて判断にはならなかったと思います。
さて、歩きまわってちょっと疲れたので、帰り道は
「متروی تهران / テヘラン・メトロ(地下鉄)」に乗ってショートカットすることに。

私にはこのテヘラン・メトロのロゴマークはあまりメトロを連想させるものではなかったのだけど
(ちょっとごちゃっとしていると思いません?)、地下鉄の入り口と階段、マークがあれば分かるものです。

今現在も拡張工事中のテヘラン・メトロはまだ新しく、1番古い路線が開通したのは2001年。路線図をチェックしてみようと近寄ってみたけれど、見事にぜんぶペルシャ語だったので全く用をなさず。(笑) 最終的には9路線で運行されるのでしょう。今のところは駅名が書かれている1号線、2号線、5号線だけなのかと思いきや、どうやら1-5号線は既に運行中とのこと。

路線図を読み取るにはペルシャ語の知識が要求されますが、チケット購入はいたって簡単。自動券売機では、英語を選択して進めることができるので問題なし。

車両の中は遠慮して撮影していませんが、新しくてキレイな電車です。女性専用車両がここにもありましたが、数名男性の姿もあり、ドバイと違って(混雑していない時間帯は) 日本のように男性が紛れ込んでいてもあんまりうるさいことを言われなさそうな雰囲気でした。
(ただ、「時間帯によって解除」だとか、そういうルールがあるわけでもない様子。)
そして、次の目的地に程よく近く、程よいお散歩になりそうな駅で
なんとなく下車。それが
「سید محمود علایی طالقانی / Ayatollah Mahmoud Taleghani / (アヤトッラー・マームード) タレガーニー」駅。

しかし、外に出てみたらびっくり!! タレガーニー駅を出たすぐ横には、旧アメリカ大使館の建物があったのです。それがなぜびっくりかと言えば、
1979年に起きた「アメリカ大使館人質事件」の現場だから。
あとから取り付けられたペルシャ語の横断幕で隠れていますが、門の右下の方に水色のペンキで「USA」と書かれているのが残っているのが確認できます。
この事件では、指導者ホメイニが敵対していたイラン元国王を一時的ではあれ、アメリカに受け入れたことに対し反発した学生らがアメリカ大使館を襲撃、占拠し、アメリカ大使館員らが444日にも渡り人質になる事態となりました。以後、アメリカとイランの国交は事実上なくなり、アメリカ大使館も今では存在しないわけですが、建物は(おそらく)当時のまま残されています。
ガイドブックにもここは今でも非常にセンシティブな場所だから、むやみに写真を撮ったり覗きこんだりしてはいけないと注意書きがされていたので、興味はあったけれど
行かないでおこうと避けていた場所だったのに、何気なく下車した駅がまさにその場所だったとは…。
無用なトラブルを避けるために写真は撮っていませんが、大使館を囲う塀はアメリカを非難する落書きの域を超越した「壁画」で埋め尽くされています。そして、足早に大使館のあるところから離れようと、先へ進むと
「Wall Street = War Street」「Down with U.S.A. くたばれアメリカ」と書かれた垂れ幕。
「Wall Street 1%、People 99%」と書かれたものも。この手のものはアメリカのデモにおいても多く見られた文言。
(%の位置が変なのは、ペルシャ語が右から左へと書く習慣があるため) 陽が傾きつつある時間帯だったので終了していたようですが、
この日、この場所でデモが行われていたようです。ますます
まずいところに来ちゃったなぁ…と焦る。早い時間にここに来ていなくて本当に良かった。日本人とはいえ、こんなところで迂闊に歩いていたら思わぬトラブルに見舞われていたかもしれません。
実際には、もうこの時には辺りには誰もいなかったけれど、勝手の分からない国で夕暮れ時に人気のない所を歩くのも それはそれで微妙なので、やっぱりこの場所から早く立ち去った方がいいに決まってる!!


今になって思えば、駅名となっていた
「タレガーニー」(写真右、wikipediaより) とは、
「آیتالله روحالله خمینی / Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī / アヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニ」(写真左、wikipediaより) と共にイラン革命を率い、反米の立場をとっていた人物のこと。人質事件の発生時には既にタレガーニーは亡くなっていますが、近年開通した旧アメリカ大使館の最寄り駅名の関係はきっと偶然ではないはず。赤い駅名板の下には彼の生前の活動を伝える写真が掲示されていたのでしょう。(後に写真を確認して気付いたこと)
あれからいくらか時間が経過していますが、今思い返しても あの時の不安な気持ちが鮮明に蘇る経験です。
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さて、もうひとつ、書いておきたかったこと。
イランの人には親日家が多いのか? という話。私の短い滞在で接したイランの人は非常に限られていますから 言い切ることはできませんが、
今のところは、親日家も結構いるのでは? という印象を受けました。
というのも、空港からホテルまでの移動でのタクシー運転手さんは、日本に2年間出稼ぎに行っていたという人でした。日本帰りの人に出会う確率が果たして高いのかどうか分かりませんが。とにかく彼はハイテンションで片言の日本語を操りながら、日本での素晴らしかった経験について熱く語り、やがては
高速道路でぶっ飛ばしている真っ最中だというのに、携帯電話で同じく日本に出稼ぎに行っていた弟に電話をかけ、私たちと日本語で無理やり話をさせる…という、彼なりのサービスをしてくれました。私としては、運転ミスが起きないかそればかりが気になって話どころじゃなかったのですが…。
こうしたイランから日本にやってくる人がかつては非常に多かったことは、覚えている方も多いでしょう。日本とイラン間ではビザ相互免除協定がなされていたため、出入国に際し双方ともビザが不要だった時期がありました。1992年にはこの協定が解消され、次々とイラン人は帰国を余儀なくされたため、現在では在日イラン人の数は ピークだった1993年の4万人から、その1/10程度にまで減少しているとのことです。
今では日本もイランへの経済制裁を行っているわけですから、あれから時代は大きく変わったということ。